白いカラーの花言葉

『白いカラーの花言葉

忘れかけていた男からメールが届いている。
「愛しています、今でも」
ねっとりとしたこの粘着性の文章が私の瞼の裏にへばりついて離れない。稚拙で今どきの義務教育の児童でさえ書かない羞恥のない文章。男の年齢を生憎もう忘れている。躊躇いもなく打ち馴れ馴れしく送信したのだろう。仕事で煩わしく過ごした私は眠くなっている。男にとっては意味のあるメールなのだろう。価値も見識もない、このメール。男はどこかの見知らぬ大学を出ていたはずだが、私は覚えていない。あの夏、すっかり私は酔い潰れていたし、海辺にホテルはなかったから、友人のクルマの中で夜明けを待つしかなかったのだ。ひどい土砂降りの道端にいた仔猫を保護してその夜《湘南》と名付けた。《湘南》は器用に私の乳房を舐めたから「お前、中々エッチなんだね」と私たちは笑った。キャミソールはくたびれて、剥がれたファンデーションもそのままに、グラスをグイグイ傾け私は酔い潰れていた。クルマの周りにいた高校生の女の子たちが男の子たちにジャンケンをさせ、勝った男の子にキスを許してはしゃいでいる。どこの高校生だろうと訝しく感じた私が確かめ、バッグに有名な渋谷の学校の校章を見つけた。「あれ、慶應のダッチワイフじゃない?」そう私が嬌声をあげたら運転席の友だちが「そう、そうね!」と頷いて氷をグラスから落とした。「その程度なんだと思う、所詮は人間だから」私が煙草に火をつけると「それって、どういう意味?」隣で眠りかけていた友だちが起きて言う。「誠実などアリエナイ、ってこと」煙を吐いて私は溜め息をつく。「あなたは人間ではないの?」友だちはネチネチ訊く。「そうかも」笑って私は誤魔化し、その場を取り繕った。なんであれ、しつこいのは趣味ではない。ただでさえ夏の風が私の髪の毛に纏わり付いている。なにもかもがイヤになっていた。いつものように『マクベス』を読んで、喧噪のバカらしい夜を忘れようとした。数時間前、私は六本木ヒルズのロビーを出て弁当箱やらコンビニの空袋やらがビル風に煽られ空高く舞うのを見ていた。西麻布に友だちのクルマを見つけ、「派手なBMW」と茶々を入れては女同士で乗り込んだ。「とにかく、海へ」友だちは私の感情の昂りに黙って相槌を打った。

マクベス』を私は子供の頃から繰り返し読んでいる。思い返せば夥しく小説を読んだ。小説しか読んでいない。大学では演劇科に籍を置いた。文学部に行こうと思ったが、書店にも出版社にも退屈していたから意味のないことをすれば時間のムダだと感じた。倦怠の中で私は高校時代を過ごした。首席で高校を卒業し、行きたいところは演劇科しかなかった。階段教室でセンスのない地味な女の子が自家製の脚本を書いている。演劇科はそんなところだ。女優志望の学生などまずいない。教授から私はアルフレッド・ド・ミュッセの脚本を借りて今も返さずにいる。教授は何度もラブレターを寄越したが、手紙の重たさに嫌気がさして相手にしなかった。「どうして?」教授は鳩のような目をしている。「メールにして」スカートの皺を直して言うと「アドレス、知らない」と教授。「名前、ググれば」私は教室のドアを開けて食堂に向かった。成績は優をくれた。見返りを私は何もしていない。

会社で私はアプリの開発をしている。人間関係で悩むことが少なく、給料はかなり入るし、退屈凌ぎには丁度良い仕事だ。一時間毎に休み時間がある。その度に私は楽しみなシェイクスピアを読む。他の社員は意味もなく駄弁ったり、ぼんやり物思いに耽ったり、iPod touchで音楽を聴いている。「なんでそんなに仕事ができる?」上司が不思議そうに話し掛けてくる。「帰属意識を自分自身にしか置かないから」私は『マクベス』から目を離して愛想笑いを差し向けた。「君は、《軽蔑》という事態にどう対処するの?」上司がしつこく訊く。躊躇う素振りを演じて私は言った「闘うことはしません。竹槍でB29を突き落とそうと無茶をして《お国のために》なったというのは本当なのでしょうか? 誰もが気づいていながら誰もがその竹槍運動をやめませんでした。当時はE・フロムもいませんでしたが、人間なんていつもそんなものでしょう。《常に》茶番劇があります。必要と《考えている》のでしょう。侮蔑する人は後を絶ちません。寛容は憔悴しがちです。でも、天をも突き落とす自尊心は稀でしかありません。 違いますか?」私はココアのカップを口寄せた。「私なら、全人類を軽蔑しても差し支えありません」
上司は何も聞かなかったフリをしてそそくさと立ち去った。至る所に『我が逃走』がいる。コンピュータのディスプレイに眼の焦点を合わせるのに苦労した。私は孤独には慣れ親しんでいるが、哀しみには中々慣れずに過ごしている。眼がチカチカして、チクチク痛んだ。残業をこなした後、赤坂で飲んだ。真夜中に学生時代の友人が「フラれたわ、変なヤツだったけど」電話をしてきた。この夜、一睡もできなかった。

「きっといい人、見つかるから」私がeau de Cologneを耳許に吹きつけていると彼は乱暴にティーカップをテーブルに置いて「何を言うんだ!」と警戒した。「不足しているのはいったい何なんだ!」
チークが巧く入らない。古くなっているからなのかもしれない。目を凝らして鏡を見る。私は黒い筆でローズのチークを散らせてみた。冬になり化粧の時間が長くなっている。どこかが夏とは違うような気がする。シルバーのビキニを一昨日処分した。波に揺られていたら、彼はシルバーのビキニに手を差し込み、大切なところを数知れず刺激した。
「やめてくれない? もうお終いにしましょうよ」鏡の中の私が顔をしかめているのが分かる。ローズのチークが奇妙にぼやけた。
「バカなことを言うもんじゃない。急に、何なんだ!」
「編集長としてのあなたには、お似合いの人がいるはずよ。もっと有能な人が、たくさん」
「たくさん?」
「えぇ、たくさんいるはず」私は《あなた好みの人が》と言いそうになって躊躇った。そこまで言う必要もない。言ってもムダなことはキリがないから言わないでおいた。

目黒川沿いのマンションにはもう二度と戻らなかった。衣裳と化粧品だけを私は慎ましやかに運び出した。シューズもバッグも小物類も置いてきた。書籍類は友だちに頼んで保管していたが、私は大抵kindleでしか読書しない習慣だったから、紙の本の数はさほど多くない。それでも《世間の常識》から眺めれば圧倒的な量だった。「気が遠くなるわね」友だちは苦笑する。三島由紀夫の作品を全て捨てて私はまたシェイクスピアを読んだ。下北沢で新たなポーチを買い、倉橋由美子の小説を入れ、小脇に抱えて小走りした。紅いポーチが温かい。落ち葉を踏みしめ私は走った。極端に孤独で心地良いほどだった。誰も私の不幸せを知らないし、理解しようともしない。空が高い。風景はコローの美術作品のように秩序立っている。走っているうちに涙がじんわり溢れてくる。死にたくなるって、こういうことだろう、私は全力で走り始めた。誰もそのことを正確に知りはしない。確実なこと、それは私がこの孤独からもう逃れることなど決して出来はしないという感傷を超えたことだ。センチメンタルに甘んじることのおぞましい優しさを私は嫌悪した。涙が迸り、止まらなかった。際限もなく紅いポーチは揺れた。小径から外れた所で私はハンカチをポーチから取り出した。偶々iPhoneが落ちそうになる。iPhoneの写真のコレクションにマン・レイの『カサディ公爵夫人の肖像』があった。公爵夫人が揺れて陰鬱に痙攣しているのを私は暫く凝視した。冷たい風が私のチークを台無しにしていた。《いい人は、いいね》川端康成の『伊豆の踊子』のワンセンテンスが脳裏をよぎる。私は醜いに違いない。

渋谷のセンター街をとぼとぼ歩く。夜景はネオンで騒々しい。高校の頃、よく遊んだゲームセンターがある。入ろうとして、ガラスに写った自分の姿を見た。白く霞んでいる。もやもやした霞の奥に顔がある。眼をじっと見つめてみた。アイシャドーは幸いしっかりとしている。瞳の中の虹彩が認識できる。菫色の虹彩ではないけれど、悪いとは思えない。私の吐息がガラスに吹きかかり、虹彩も瞳も曖昧模糊としてしまう。紅いポーチでガラスを何度か拭いて、顔を見つめようとしたが、足許にあった吐瀉物に滑ってしまった。危うく転びそうになり、私の不安は極度に増長した。私は自分が誰なのか、全く認識できていない。eau de Cologneの薫りだけが私の存在の助けとなっていた。

「必要悪、とは思いたくもなくて」グリーンのスカートを巧みに翻しながら彼女は独りごちた。「私は、私が分からないの」彼女はどこか優雅に微笑む。
私は彼女に共感を抱いた。
「SM好きな男たちがね、私を探して追いかける。鞭打つけれど、私はそこにはいない。女王様だなんて、いないのよ。コカインのせいばかりじゃないわ。質の悪いコカインは脳にもカラダにも毒なのね、壊れるから私は絶対にやらない。上質なコカインだけ。炙りで、やる」彼女は瞳を一頻り落としたが、またきっちりと私を見つめる。「とても綺麗。あなたほど綺麗な女を私、今まで見たことがない」彼女は相変わらず優雅に微笑む。そう言われて私は恥ずかしくなる。とても恥ずかしい。彼女の唇が鮮やかなルージュで縁取られているのを再認識する。
「こんな娼婦だなんて私の商売は、確かにローマ帝国以来の女の恥部で、男なんてみんなくだらないから、なくならないのよ」彼女は少し沈黙して続けた「濡れない、一度も私は濡れたことないから、ローション使うしかなくて。だって」周りの人たちをぼんやり眺めて彼女は深い溜め息をつく。「自分でするしかないのよ、私。不器用だから、コカインがいる。それないと私、絶対、いかないの」
「娼婦を絶対に相手にしない、そういう男が私の理想。そういう男となら、私、いくかもしれないわ。コカイン無しで、ね」

メールを私は削除した。掃いて捨てるほどいるそこらのしつこいバカ男など相手にしない。

あの彼が病気だと知ったのはかなり以前のことだ。壊れて入院していると聞いている。静かな郊外に病院がある。一抹の不安を押し殺し、私はひと気のない病院の正面ドアを開けた。

「不思議ですね」受付の何かの職員が小首を傾げ「面会ですかね」そう訝しそうに言う。
「えぇ。高校時代の友人で、彼」私は慌てて言う「会えますでしょうか?」
「そりゃ、勿論。いや、誰も面会に来たことがないから」受付の職員は笑った。「長くここにいるんですよ。退院を促しはしたんですが、拒絶されて」

だいぶ私は待った。時計を何度も確認した。マホガニーの壁のところどころが剥がれている。ホルマリンの臭いが立ち込めている。

小綺麗な女性に付き添われ彼が姿を現した。女性は小柄で、華奢な体つきをしている。髪の毛を引っ詰め、ポニーテールとも違う結い方だった。薄っすらと化粧をしている。看護師さんなのだろうと私は思う。奥歯を私は噛んだ。ここは、病院なのだ。

「そうでしたか。わざわざ遠いところまで、どうも有り難うございます」小綺麗な女性が丁重に返答する。「ヘルパーです、私は。ナースではありません。身の回りの世話をしています」
私は彼を見て、救いを求めるかのようにヘルパーさんの声を聞く。変わり果てている彼を見るのは、私たちにとって何かしら残酷だと思う。
「さぁ、こんなに素敵な美人さんが来てくれたのに、分からないの?」ヘルパーさんは彼の肩を引き寄せている。「高校の時の、お友だちよ。分からない? 思い出せない?」

痙攣するのを私は感じる。嗚咽を禁じ得ない。私は顔を両手で覆った。腕時計のベルトがきつく、思わず私は時計を外した。化粧なんてどうでもよかった。何の意味もなかった。どこかからピアノの音色が聞こえてくる。何もかもがもう滅茶苦茶だと痛感する。私は今まで何をしてきたのか分からなくなった。

「もしかしたら、お忘れになったほうがいいのかもしれません。彼の精神病は、根が深く、治る見込みが困難です。悪いことは言いません。あなたと、彼のために、もう」ヘルパーさんは玄関先で言った。「そんなに泣かないで。あまり悲しまないで。とても優しいお方と再会した彼は、きっと幸せなんですよ」私はヘルパーさんの胸に身体を預けて泣いた。嗚咽は号泣になり、号泣は慟哭になる。「分かります、あなたのお気持ちは痛いくらいよく分かりますよ」ヘルパーさんは私を抱き締めた。「いつか、女優になったら。私がいつか女優になった暁には、間違いなく、劇場にお越しください」何度もヘルパーさんは頷く。「あなたはこの上なく綺麗な人ね。行きますよ、彼を連れて行きますから」

隅田川のテラスを私は歩く。満開の桜が、私の翳の上にある。柔らかい風がそっと吹いて、私の翳に桜の花びらをひとつ落とした。その花びらを拾い、紅いポーチの中に入れた。いつもの私のeau de Cologneの薫りが、桜の香りに変わることを願った。台本を紅いポーチから取り出して、私は公演の準備を周到に始めた。